ラス・リラス便り

第 12 号

平成17910

アルゼンチン国コルドバ州ビジャマリア市

須郷 隆雄

 

 夕方6時どき、この時間帯は近くに4軒ある喫茶店が殆ど満席になる。何故なのか良くは分からない。夕食前のお喋りタイムなのかもしれない。

 ラス・リラスは何時ものようにほぼ満席。テーブルの奪い合い。ちょっと早く席に着く。私の勝ち。悪いような気もしたが、心を鬼にして譲らなかった。ウェイトレス、何時ものように注文をとりに来る。私の目をじっと見つめる。ちょっと笑顔をすると、ちょっと微笑む。何時ものコルタードを注文する。

 新聞を広げたものの、一向に内容を把握できない。目が活字を追っているだけである。帰国を2ヵ月後に控え、ボランティアって何だろうと思いを巡らしていた。「与えることに、特別な才能や技術はいらない。与えることは失うことではなく、心は以前に増して満たされる。心が満たされれば、生きていることの喜びを実感できる」そんな言葉が浮かんできた。

 アルゼンチンでは、施しをする人もされる人も当然のこととしてそれをする。宗教観の違いと言っていいのだろうか。旧約聖書の「申命記」の言葉に、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要なものを十分に与えなさい」とある。「神があなたの手を作ったのは、その手で他の人を助けよ」と言うことだそうだ。旧約聖書の中には、既に2800年前にこのボランティア精神が書かれていたのだ。

      

      教会のキリスト像             永平寺の子供座禅

 仏教にはそのような道徳はないのかというとそうではない。仏教には十善戒と六波羅蜜というのがある。十善戒はしてはならないこと、六波羅蜜はすべきことを規定している。大乗仏教は布施の徳を第一の徳としている。布施には財施、法施、無畏施の三種がある。つまり、人に物を与える財施のみではなく、教えを説く法施も布施であり、また悩みを聞いてやり、その人の不安を取り除く無畏施も布施なのだ。仏教にもキリスト教に負けないボランティア精神が書かれているのである。

 地獄の入り口で、天秤を手にした閻魔さんが言います。「自分の寿命を自分のためでなく、他人のために使いましたか」と。自分のための方が重かったら、「極楽は無理ですね」と。そこではたと我に返る。うつらうつらと居眠りをしていたようだ。

 相変わらず店は込んでいる。私の隣で老夫婦が、席が空くのを待っている。居眠りの間、待っていたのかと思うと気がとがめた。目で「どうぞ」と挨拶すると、「ムチシマ・グラシアス」と礼を言い、私の席に着いた。

 大分、日が伸びてきたようだ。目をこすり、大あくびをして夕暮れの町に出て行った。

          

                              座禅草


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