ビジャマリア情報26

 

2005.7.20.

Villa Maria, Cordoba, Argentina

須郷 隆雄

 

 謎の島ラパ・ヌイ。ラパ・ヌイはイースター島の現地語だ。スペイン語ではイスラ・デ・パスクア。チリから4000キロ、太平洋の孤島、謎の島、モアイの島イースター島に向かった。

 朝4時起き、5時のバスでコルドバ空港へ。出発2時間前に到着、順調な滑り出し。税関で「帰国か、また戻るのか」と聞かれる。「戻る」と言うと「ムイ・ビエン(大変良い)」を連発する。アルゼンチンに必要な人材と思われたのかと、ちょっといい気分。隣の席はトロントへ帰るという美人さん。これまたラッキー。雪化粧のアンデスを越え、1時間半のフライトでチリ、サンチャゴへ。時差1時間。イースター島行きに乗り換える時、タクシーの運転手らしき男がやけに親切に近寄ってくる。国内便乗り場やレストランを紹介してくれる。チリペソへの換金場所も案内してくれる。最後にチップを請求して来た。2000ペソ(400円)やると不満顔であった。チリペソはやたらに価値が低い。1円が5ペソ、1アルゼンチンペソが200ペソ。1ドルは500ペソだ。タクシー運転手が不満顔なのもうなずけた。アルゼンチンよりちょっとせちがらい。気をつけねば。しかし、300ドル両替して15万ペソ。大金持ちになったような気分だ。

 4時間待ちでイースター島へ。席に着くとスチュワーデスから席替えを求められる。出口の扉近くに案内される。少し走るとまたゲートに戻ってしまった。飛行機を変えるようだ。スペイン語が解らないと見たか、係員が私のところに説明に来る。2時間後に再度案内するとのことだ。情況は良く解らない。青年から訛りのある英語で質問される。少しは旅なれているように見えたのかもしれない。結局飛行機は飛ばず、明朝になるとのことだ。シェラトンホテルを用意してあるとのこと。ラッキーと思いつつも、「イースター島のエクスカーショウンはどうなるの」と聞くと、「ペルドン(御免)」で済まされてしまった。バスでホテルに移動中、不思議と被害者同士の連帯感のようなものが生まれてきた。互いに挨拶しあうようになる。英語とスペイン語が最早半々だ。しかし、部屋は冷蔵庫には鍵、電話は使用不能、その上食事は全員同じ定食だ。一銭も使わせない魂胆だ。ラン・チリ航空もしっかりしている。

 翌朝、バスでまた空港へ。小雨混じりだ。空港から代理店に電話して、変更を手配してもらう。漸く出発だ。またもや席の移動を求められる。子供3人連れがいるようだ。またもやゲートに戻るのかと思いきや、順調に離陸する。拍手するものもあった。4000キロ、5時間、ひたすら太平洋の謎の島を目指しての航路だ。サンチャゴと時差2時間、更に4000キロ行けばタヒチだ。心なしかフランス語も聞こえる。ブーメランのような形のイースター島に無事到着。いっせいに拍手。気温18度、快晴だ。

 旅行代理店が迎えに来ている。老紳士夫妻が写真を撮っている。2人の写真を撮ってあげると、全く同じデジカメ。これが縁で、「プロフェッサーか」と聞かれる。「プロフェッサーではないが、大学に勤めている。」と言うと、「私はプロフェッサーだ」と言って名詞をくれる。なんとアメリカのサン・ホセ州立大学の地質学博士で、しかも学長である。私も名詞を渡し、以後会話が弾む。東京に友人がいるとのことであった。旅行社の説明によると、昨日は嵐で飛行機が飛べなかったとのことであった。漸くその一部始終を知った次第だ。花の首飾りを付けられ、ハワイに来たようなうきうきした気分でホテルへ。ホテルというよりはコテージといった感じだ。部屋にはテレビもラジオも無い。あるのはダイアル式の電話、しかし国際通話は出来ない。回りは見渡す限りの海、銚子の犬吠崎に戻ったようで心が和む。自然がご馳走だ。食堂に行くと日本の花嫁姿の折り紙が貼ってある。ウェイトレスに「角隠し」のいわれをひとくさり。昼食後、ツアーに出かける。

 この島は3個の火山から出来、その山頂が海から顔を出したブーメランのような形の島だ。ハワイとタヒチとこのイースター島が、太平洋のトライアングルをなしている。ラノ・カウという火口湖はまさにその証明だ。ガイド嬢がスペイン語と英語を交互に実に流暢に喋る。内容は半分も解らない。「百聞は一見に如かず」である。目が全てを理解してくれる。ガイド嬢の名はチナ・ダカパン。ミクロネシア系の顔だ。何故チナなのか解らない。「ハポンにしたら」と言ったら、両手で目を吊り上げた。アジア系は皆、目が釣りあがっていると認識しているようだ。

 ホテルに帰ってもすることが無い。ツアーで知り合ったドイツ人とカリ・カリというショウを見に行く。このドイツ人、生まれはフランクフルトで、チリの最南端の町プンタ・アレーナスで石油化学のプロジェクトのチーフとして2年間派遣されたそうだ。723日にはフランクフルトのエンジニアリングの会社に戻るとのことであった。これからサンチャゴで別れるまでお付き合いをすることになる。カリ・カリ踊りにはホコというのとサウ・サウというのとポリネシアという3種類があるとのことだ。それにしても実に激しい腰振りセクシーダンスだ。一踊りすると汗が胸の谷間に流れ落ち、これがまたセクシーだ。しかしショーは全て10時で終わり。アルゼンチンのように2時から始まって、朝方までということは無い。お陰で夕食を食い損ねてしまった。すきっ腹を抱えて、しかも膝っこぞうを抱えて寝ることにした。

 朝方結構冷え込む。当然、暖房は無い。毛布をかける。ドア入り口で猫2匹が出迎えてくれる。今日はメインツアーだ。マイクロバスの一番前に例の学長夫妻が陣取っている。「グッド・モーニング」と挨拶すると「こんにちわ」と言うので、「おはようございます」と返した。ツアー仲間はこの学長夫妻とスペインのマドリードから来た新婚さん、アメリカ人と東洋系のちょっと不可解な恋人同士、それに3夫婦とお婆ちゃん、そしてドイツ人技師と私の15人だ。かなりのモアイが倒れたままになっている。遠くには牛や馬が草を食んでいる。阿蘇の草千里を思い出す。小学校の頃、夏休みの絵日記に書いてくれた母親の絵が、今思えばモアイ像に似ていた。全て横向きだったような気がする。その母も今は90歳を過ぎ、痴呆が入ったとはいえ、未だ健在だ。イースター島で絵日記を思い出すとは思わなかった。


     

   ラノ・ララク、ガイド嬢と            トンガリキ

 ラノ・ララクはモアイを切り出した火山である。イースター島の最高峰だ。標高511メートル。5メートルを越すモアイもある。ソラマメに良く似た草が群茂している。ソラマメの原生種かもしれない。マメ科の植物が多い。昼食は麓の休憩所。全員同じ鶏肉定食だ。アルゼンチン国花のセイボが満開である。この島はセイボとユーカリが多い。気候的には、アルゼンチンやオーストラリアに似ているようだ。売店の親爺、現地住民の格好で「こんにちは。ありがとう。さよなら。」とやたらに日本語で愛嬌を振りまく。イースター島では何処へ行っても、片言の日本語を話す。しかも日本語のメニューがあるレストランもある。昨夜のカリ・カリショーでは、スペイン語、英語の後に日本語の挨拶があった。何処で覚えたかは知らないが、かなり正確な日本語であった。日本のお客は上得意なのだろう。

 ラノ・ララクからはるか彼方、海沿いにトンガリキが見える。15体のモアイ像だ。これはユニセフの依頼を受け、海岸に転がっていたモアイを日本の建設会社の只野さんという方が整備したとのことであった。ガイド嬢が盛んにその経緯を説明する。ツアー仲間から「日本人か」と聞かれ、ちょっと優越感を味わった。このような場面に良く出会う。日本人が如何に草の根的活動をしているかが、世界を回ると良く解る。先達の活躍に敬意を表すると共に、このような活動を継続し、さらに発展させなければならないとつくづく思う。これは我々の責務でもある。

 アナケナはイースター島では数少ない海水浴場だ。ビキニ姿や家族連れ、椰子の林に7体のモアイ像。何とも妙なコントラストをかもし出している。モアイ像は子供の遊び場にもなっている。

 アキビは7体のモアイ、日本では最も有名な場所だ。このモアイ像は内陸に立ち、遥か西の海を見つめている。殆どのモアイは海岸沿いにあり、内陸に向かって立っている。何のために立てたかは、謎のまた謎である。

 ツアーの最後に、ガイド嬢、藪影でおしっこ。天真爛漫なガイド嬢である。多分モアイの末裔であろう。

 その晩もすることが無い。やむなくまた、例のドイツ人技師とポリネシアンショーを見に行く。今夜は夕飯を済ませ、準備万端で出かける。昨夜よりはアクティブな踊りではない。ハワイアンのような感じだ。刺身と書いてあるので注文するとたたきのようなものが出てきた。無理やり舞台に上げられ、一緒に踊らされる。思わずフォルクローレスタイルで踊ってしまった。後は踊り子と一緒に記念撮影。旅の恥はかき捨てだ。

   

 アキビ                  アナケナ

 翌日、市内ツアーに出かける。マドリードの新婚さんと私とおしっこのガイド嬢の4人だけだ。「これがメイン通り、ここが郵便局、スーパー、そしてこれが役場」と大変なシティツアーである。何しろ700世帯の島だ。特に見るところは無い。しかし小さいが、ドイツ人宣教師が建てたという博物館はなかなか良かった。日本語の説明書を渡してくれる。謎の島ラパ・ヌイ。火山で生まれた島。「楽しんで、学んで、想像してください」と書いてある。モアイは多こう状玄武岩で出来ているようだ。何故このような巨石文化が起こったのかは謎だ。どうも、マナ(神通力)とタブ(禁忌)によって維持された社会であったようだ。時間が余ってしまう。パブでビールを飲むことにした。よく喋る新婚さんだ。4人で写真を撮り、後日メールで送ることにした。

 珍しく、チリ大統領がイースター島を訪問するとのことで、1時半の出発が4時にまたまた変更である。新婚さんはこの後タヒチへ。学長夫妻とはここで別れを告げ、悪友ドイツ人技師とはサンチャゴ空港で硬い硬い握手をして別れた。お陰でホテルに着いたのは真夜中の12時だった。

 翌日はサンチャゴシティツアーだ。人口410万人。チリ人口1600万人の25%が住む首都である。チリは南北4300キロ、しかし東西は狭いところで90キロだ。アンデス山脈と太平洋に挟まれたウツボか太刀魚のような国である。しかし、いまや南米では一、二を争う経済的に活気のある国だ。市内も近代的なビルが立ち並び、高速道路も整備され、町が郊外へと伸びている。物価もアルゼンチンより3倍ほど高い感じだ。疲れも溜まってきたので、4時ごろホテルに戻り仮眠する。夕食はホテルでコルビーナのムニエルにする。白身の魚のようだ。生野菜はドレッシングも出たが、オリーブとレモン汁と塩で食べた。もう完全にアルゼンチン風である。

       

       カリ・カリ踊り              サンチャゴ

 いよいよ帰国。朝5時にタクシーが迎えに来る。コルドバ行きのカウンターにまごついていると運転手が案内してくれる。1000ペソ、チップを渡す。チェックインを終えて税関に向かおうとすると、その運転手がまた案内してくれる。親切な運転手だ。

雪のアンデスを越えコルドバへ。モアイ像に似た母親の絵日記を思い出しながら眠りについた。




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