エクアドル便り100号

ドン・キホーテの戦い

 

 第19回2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会は7月11日に、1ヶ月に及ぶ世界32チームの熱き戦いを終えた。頂点に立ったのは宿敵オランダを延長戦の末1−0で破ったスペインだった。スペインは第1試合でスイスに破れる波乱のスタートとなった。第1試合に敗れたチームが優勝した例は無い。ブラジルが5回、アルゼンチンとウルグアイが共に2回の優勝を果たしている。宗主国スペインの最高位は4位のみで、優勝の経験が無かったとは意外だった。優勝賞金は3000万ドル(26億4000万円)という。次回大会はブラジルだ。

 ワールドカップは1930年から開始された。第1回大会は南米ウルグアイだった。第1回大会を発案企画したFIFA会長ジュール・リメの業績を称え「ジュール・リメ・トロフィー」が作られた。イタリア人彫刻家シルビオ・ガザニガによる純金製である。高価のあまり今は優勝国の保存は無くなり、レプリカが贈呈されている。

  

    初優勝のスペインチーム           予想師パウル君

 スペインはギリシャ、ローマ帝国の支配を経て、711年以降イスラムの勢力下にあった。1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見するが、その年に781年にわたったイスラム支配が終了し、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭する。大航海時代を経て、ラテンアメリカを支配下に、植民地からの富によって16世紀から17世紀のヨーロッパの覇権国的地位を得た。「太陽の没することの無き帝国」になったのだ。オスマン帝国を破ったスペイン艦隊は、以後無敵艦隊と呼ばれた。ドン・キホーテの作者セルバンテスはこの戦いに参加し、片腕を失った。しかし、1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、スペインの黄金時代は終わりを告げる。変わって17世紀に台頭してきたフランス、オランダが、18世紀、19世紀はイギリスが、そして20世紀はアメリカが世界の覇権を握った。その500年間に近代化に遅れを取ったロシア、ドイツそして日本が覇権に挑戦するが共に敗れた。

 オランダは15世紀からスペインの領土として植民地化されていた。1648年に独立後、古くから商工業が発達し、経済的に繁栄していたオランダは海上帝国を築き、衰えるスペインに代わりアジア、アメリカの貿易の覇権を握り、黄金時代を迎える。しかし、3度にわたる英蘭戦争、ナポレオン戦争によりオランダ海上帝国は終わりを告げる。

 スペインとオランダの主役交代は、日本の歴史を見てもわかる。最初に来航したのは、南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガル人だった。遅れて来たのがリーフデ号に乗ったオランダ人だ。ヤン・ヨーステンは東京駅前の八重洲の地名として残り、同行したイギリス人ウィリアム・アダムスは、三浦按針として徳川家康の外交顧問になった。長崎出島のオランダ商館が日本貿易を独占し、ヨーロッパにおけるスペイン、オランダの力関係が、そのまま日本の貿易に反映されているから面白い。

 ドン・キホーテに描かれる風車に突進するシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるというスペインとオランダの主客逆転を暗示していると言われる。しかし今回のドン・キホーテと風車の戦いは、ドン・キホーテの勝利に終わった。500年の歴史を越えて、FIFAワールドカップという舞台でオランダから勝利を収めたのだ。

 ドイツ西部のオーバーハウゼン水族館のタコ「パウル君」が、準決勝ドイツ・スペイン戦に対しスペイン勝利のお告げをした。2008年の欧州選手権の決勝戦ではドイツ勝利を予告し、その予告は外れスペインが王者になった。ドイツはその期待を込めてパウル君の予想が外れることを願っていた。しかし予想は当たってしまった。ドイツ国民から、パウル君を「シーフードサラダにして喰ってしまえ」「パエジャにしろ」「サメの水槽に投げ込め」との声が上がったと言う。決勝戦のスペイン・オランダ戦はパウル君のスペイン勝利の予想通り、スペインが優勝した。パウル君に優勝トロフィーのレプリカが授与された。8本の足で喜んでそれを受け取ったという。スペインはその恩に報い、パウル君を国賓として迎えねばなるまい。マドリードの水族館はパウル君を迎える交渉を進めている。しかし、餌として食べられたムール貝はパウル君の名声の一部は自分たちにもあるとして、その権利を要求しているという。

事務所のマギー宅に招待を受け、一族郎党と共に「エスパーニャ、エスパーニャ」と声援を送っていた。ワールドカップはオリンピックに勝るとも劣らない人気と興奮をもたらす。スポーツには何か解らないが、人の心を駆り立てる不思議な魔力がある。

平成22年7月11日

須郷隆雄