トンサ山村、驚きと困憊の彷徨
 
平成18年10月30日


 朝8時、寝袋を買い、総勢7人で隣県トンサへ向かう。トンサ県はブムタン県の南西に位置し、東西及び南を結ぶ交通の要衝でもある。トンサ県の山村調査のためだ。初冬を思わせる寒さだ。運転手はマッシュルーム先生の日本語ぺらぺらドルジ。山を越え、県都トンサで南へと方向を変えると、道路は急速に下降を始める。次第に松林から広葉樹林へと移っていく。やがてバナナの木、蝶が舞い始める。せみも鳴いている。一気に冬から夏である。標高差1,500メートル、何となく呼吸が楽になったような気がする。山の中腹に棚田が広がる。ペルーの中空都市マチュピチュを思わせる景観だ。インド音楽を聞きながらカーブを右へ左へと降りていく。途中ランテル村で昼食を取る。奇妙なおばばが土間に座り込み、やたらと話しかける。遠来の客を歓待しているのであろう。やがて民謡ともご詠歌ともつかぬ歌を歌い始める。一汁一菜の食事を始めるとどこかへ行ってしまった。道路の向こうでまたそのおばばが歌っている。なんとも妙な雰囲気だ。  

 中継地点でドルジたちと別れ、いよいよ我ら5人、山道の行軍が始まる。並大抵の山道ではない。斜度60度はあろう。体を横にして300メートル谷底へ降りていく。つり橋を渡り、さらに500メートル登る。通常2時間の行程を3時間かかる。膝ががくがく笑い始める。急斜面にへばり付いたような60戸ほどのニムション村に到着する。村人が暖かく迎えてくれる。鶏、牛、鼻をたらした子供、皆裸足だ。牛の糞の臭いが漂っている。当地の普及員からレクチャーを受ける。文化から隔絶した村だ。輸送手段は人の足または馬だ。自給自足の村である。賃金収入は農閑期の道路工事やわずかな唐辛子販売ぐらいである。とにかく貧しい。電気はない、風呂もない、トイレは屋外に囲いがあるだけだ。夕食をろうそくの明かりで済ます。暗いがゆえに不潔感も気にならない。粗末な食事ではあるが村人は精一杯のもてなしをしてくれる。有難いが故にこの村を何とかせねばとの思いも募る。夕食後、この村の習慣だと仲間が言う。外にはうら若き女性が8人ほど立っている。何が始まるのやら、ヌードダンスかとあらぬことを想像してしまう。しかしここブータンは敬虔な仏教国である。女性は足すら見せない。夜這いがあるという話は聴いたことがあるが。例のブータン民謡らしき踊りを1時間も踊っている。無理やり踊らされるが面白くもなんともない。日本の歌を歌えとの催促までする。山道の疲れも手伝い、1人先に寝袋にもぐり込み寝てしまう。寝袋を買ってきたのは大正解だ。しかし、恐ろしいほどの満天の星と静寂は貴重な体験だ。

 翌朝、鶏の鳴き声で目を覚ます。屋外のトイレで用を済まし、共同炊事場で顔を洗い、次の村ナブジへ出発だ。山の中腹を歩く。アップダウンは比較的少ない。細い道を石に躓きながら進む。牛の一群が山道をふさいでいる。子供が上手に道を開けてくれる。大体牛の世話は子供だ。カウ坊やである。道路修理の山小屋でお茶をご馳走になる。皆知り合いだ。農家の労働奉仕のようだ。猿が木を伝っていく。妙な鳥がけたたましく鳴く。バナナの木も生い茂っている。ジャングルである。見上げれば屏風のような山が聳え立っている。汗をかき、昨日から体を洗っていない。渓流に飛び込み1人体を洗う。皆は丸裸の私を興味深げに見ている。ここまで来て恥ずかしいことは何もない。「何故入らないのだ」と聞くと、ブータン人は1ヶ月に1度体を洗えば十分だとのこと。1週間ぐらいは平気なようだ。途中、小学校に立ち寄る。人懐っこい子供たちと写真を撮る。持ってきたお菓子やキャンディーを全部上げると村までぞろぞろとついてくる。おまけに犬までも。棚田が一面に広がっている。美しい村だ。昨日の村とは違い豊かさを感じる。インスタントラーメンで遅い昼食を取る。馬が数頭いる。これで明日は馬の背で安心と思いきや、荷物運搬用で人は乗せないとのこと。乗っても振り落とされるのがおちだという。農家の壁に巨大な一物が描かれている。よく見るとどの家にもそれが描かれている。おまけにペニスの木彫りまで下がっている。「いったいこれは何だ」と聞くと「厄除けだ」と言う。何故男の一物が厄除けなのかは解らない。「女のものはないのか」と聞くとそれはないとのこと。妙な習慣だ。「ペニスハウスだね」と言うと「ペニスヴィレッジ、いやブータンはペニスカントリーだ」という。なんともはや恐れ入った。

 仏壇の間に通される。ダライラマの写真が飾られている。仏間に招くのが、最高のもてなしのようだ。7つの器に水が入れられている。毎朝取り替えるようだ。1つでも良さそうだが、何故7つなのかは解らない。夜通し灯明がともされていた。おかげで暗闇の中で寝ずに済んだ。道化師のカルマ、パントマイムのドルジ、理論家のワンダ、そして私の世話係のシェラブと明日のブータンについて論じた。如何に農村を活性化できるか。自給自足からの脱皮、道路の整備、地域産業の創設など取りとめもなく話した。皆20代、30代だ。意気盛んである。道化師カルマは40過ぎかと思っていたが38だという。しかもイギリスに留学していたとは驚きだ。ルネマグリットの月が冴え渡っていた。 

翌朝、柵を越えドアを開けたまま用を足す。とても締め切っては出来そうもない。この村はかつてインドとの戦いの場になった。仏陀が現れ、その戦いを納めたとのこと。顔を洗い、1本の大きな木を見ていると、老人が来てそのいわれをとくとくと1時間にわたって話してくれた。田んぼ道を下って、次はコルプ村だ。谷川まで下り、また急坂を登る。通常2時間のところ、4時間かかる。休みながらの登坂だ。前面にナブジ村の棚田が開けている。生活を考えなければこんな素晴らしい村はないと思うほど美しい。コルプ村は山の頂上にある。何故山の上に村を作るのか理解できない。不便極まりないと思うのだが。共同炊事場で中年の女性が上半身裸で体を洗っている。周りで子供たちが遊んでいる。横目でおっぱいをチラッと見ながら宿泊の農家に向かう。夕方だというのに、何を勘違いしたのか雄鶏が時を告げている。このような光景にも大分慣れてきた。50年前の日本の農村といえなくもない。人間、結構適応力はあるものだ。

翌朝、シャムチョリン村に向かう。8時間の行程である。7時に出発。最大の山場だ。山を下り、平坦な山道を行く。道が少し広くなるとハイウェイといい、トイレは草むら、シャワーは川、全てがナチュラルである。時々「ワオー」と大声を出す。何故だと聞くとイノシシや猿など獣を近づけないためだそうだ。せみの声、川の音、鳥のさえずり、うっそうとしたジャングル道をひたすら歩く。荷物は世話役のシェラブに全て預け、体ひとつで歩く。それでも最早限界に近い。カルマは何やらお経のようなものを唱えながら歩いている。シェラブは陽気に歌を歌っている。ドルジとワンダは最早見えないほど先に行ってしまった。やはり足腰は強い。しかも元気だ。最初の宿のニムションを過ぎ、最後の難関、谷越えを乗り切り、車を降りたルートポイントに到着。日本語ドルジが待っていた。へとへとである。しかし何とか持ちこたえられたのは標高が1000メートルと低かったため、呼吸困難に陥らずに済んだからであろう。2500メートルだと、平地を歩いても息が切れる。

車でシャムチョリンに到着。道端に25戸ほどの野菜農家が集まっている。道端集会である。農家とのやり取りを薄暗くなるまでやり、宿泊代わりの村の事務所に向かう。近くの食堂で夕食。まともな食事にありつけ、ビールを飲みすぎてしまう。椅子を繋げてベッド代わり、寝袋に包まって寝る。翌朝は川で顔と頭まで洗い、農家の待つ畑まで向かう。マッシュルーム先生の出番だ。湯を沸かし、わらを入れ、マッシュルームつくりの実演である。ナント4時間に亘る実演と講義だ。マッシュルーム・ドルジの熱演であった。この村は国道沿いにあり、流通面の問題はない。よって、換金作物の栽培が盛んである。農民のグループ化もなされているが、販売力が弱い。道路沿いや露店での販売が中心のようだ。刈り取られた田んぼに牛が放たれている。牛の糞を翌年の肥料にするためだそうだ。農薬や化学肥料は一切なし。全てがオーガニック、ナチュラルである。生きることそのものが自然との共生であり、家畜との共存である。

昼食をご馳走になり、いよいよ帰宅だ。県都トンサの路上市場に立ち寄る。大して買うものはない。車中、皆陽気に間延びした歌を歌っている。暢気な連中だ。私は右へ左へ揺られながら居眠りである。途中、ヤクの大群に出会う。ジャカールの街が見えてきた。1万足らずの街だが、大都会のように見えた。
驚きと疲労困憊の5日間の山村調査ではあったが、本当のブータン、懐の中のブータンを見たような気がする。ガイドブックに紹介されている時を超えたノスタルジックなブータンとは違う、貧しさと厳しい自然と闘いながら生きている現実のブータンが、そこにはあった。


  
                               (クリックすると大きな画像が見られます)





                         >戻る