ダショー西岡の故郷パロ谷
 
平成18年12月27日

 ティンプーから川沿いに下っていくとチョゾムでパロ川と合流する。チョゾムはチィンプー、パロ、プンツォリンへの分岐点でブータン最高の交通の要衝でもある。検問所があり、全ての車はここでチェックを受ける。合流点の川岸にはネパール式、チベット式、ブータン式のチョルティンが並んで建っている。それを右手に見ながらパロ川沿いに上っていく。地層が変わったかのような木立の少ない山肌を見ながら進む。次第に川幅が広がり整備された水田が広がる。山が遠のいた分明るい感じだ。突然、川原にパロ空港が現れる。滑走路は1本だけ、国際空港というよりはローカル空港だ。初めてパロ空港に到着したときは、山間の空港と思っていたが川原とは知らなかった。しかし懐かしい。期待と不安で降り立った空港が目の前にある。何かジーンと来るものがあった。
 山がちなブータンの地形の中でパロは例外的に平地に恵まれ、昔から米どころとして有名である。豊かに広がる水田と点在する伝統様式の大農家、尾根には白いダルシン(経文旗)が翻り、大いなる農村という感じだ。パロの標高は2300mほどであるが、谷間という狭さを感じさせない。日本の農村の原風景を感じさせる郷愁がある。また西のブムタン、東のパロといわれるほど仏教文化の草分けであり、ブータンの歴史を左右してきた偉大なる農村でもある。

    

 パロ空港とパロ川をはさんで西側に、ブータン農業の近代化に寄与した日本人、西岡京治の実験農場、ポンデファームがある。養鶏場を訪ねてみたが、作業員は日向にたむろして、期待したほどの感動は受けなかった。しかし、かつて西岡がブータン農業に情熱を捧げ、ブータンの土となったその功績は今も高く評価されている。
 西岡は1933年ソウルに生まれ。大阪府立大学農学部を卒業後58年西北ネパール学術探検隊(川喜田二郎隊長)、62年大阪府立大学東北ネパール学術調査隊(中尾佐助隊長)に参加しヒマラヤ農業に関心を深めていった。64年コロンボ計画の専門家としてブータンに入る。伝統的な手法に固執するブータン人に日本農業のメリットを認めさせるため、パロを中心に近代的稲作技術の導入、野菜栽培、ジャガイモやりんごなど輸出換金作物の振興に努めた。又、経済的後進地域であったシェムガンの開発にも取り組んだ。そのために西岡はブータンの暮らしや考え方を受け入れ、自分をそこに同化させながら人々の心に近づいたという。92年現地で亡くなるまで、28年に及ぶ戦いであった。この活動が評価され、80年に国王からダショー(政府高官や功績のあった者に贈られる爵位)の称号を授与されている。西岡が広くブータン人の尊敬に値する人物として評価された瞬間である。西岡の存在はブータン人の日本人に対する信頼を育み、後に続く人々の信頼の輪となって広がっている。
 「僕はいつも技術援助で考えていることは、中央集中の排除です。常に地方に重きを置くこと。これをやらないで普通の技術援助でいきますと、都市の商業資本が儲かって、それにあわせて人口が都市へ集まってくる。そうするとクッキング用の薪が足りなくなる。LPガスを使うためガスコンロが欲しくなる。それでも都市だけは何とかやっていく。結局地方は何も出来ていませんから、都市への人口移動が起こり、悪循環が続きます。地方の人々の生活に最低必要なものをまず満たすような援助をやったほうが長い目で見て国のためになると思います。」西岡京冶里子著「ブータン神秘の王国」より 
 ポンデを見下ろす高台に築かれたダショー西岡追悼チョルティンが、今もブータン農業の発展と行く末を見守っている。


   


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